旬な言葉「じぇじぇじぇ」

A Week in Tokyo 78
Danny Choo / Foter / CC BY-SA

国民的方言になりつつある「じぇじぇ」。じつは岩手県の一市町村の、それも一部地域だけの方言だったようです。
【ニュース『深・裏・斜』読み】「じぇじぇじぇ」ブームに見る方言考 表現豊かな「文化遺産」+(1/3ページ) – MSN産経ニュース

それって、もしかしたらホントに仲間内だけの「くちぐせ」だったんじゃない?という気もします。

それはそれで「じぇじぇ」なんですけど(笑)。テレビの影響力ってスゴイですね、という相変わらずのお話。

旬な言葉「熱中症」

暑い夏は水遊びがいちばん。
暑い夏は水遊びがいちばん。

今日(2013年7月11日)に全国で熱中症で病院に搬送された人は1266人。そのうち3人死亡。お気の毒です。この文明の時代に暑さで亡くなるなんて・・・。今年は梅雨明けも早くて過去最高に暑かった2010年を上回るかも、と言われてます。

それにしても、僕の小さい時は熱中症なんて言葉もなかったし、暑さで病院に運ばれる人なんて耳にしなかったけどなあ・・・と思い、調べてみました。
図録▽熱中症死亡者数の推移
やはり年々増加傾向にあるようです。リンク先では、理由として高齢者が増えたからでは、としていますがどうなのでしょう。

中学生のとき(うん10年前)は部活動で水飲むな!なんてみんな暑さでバテバテになりながら炎天下グランドに出てましたね。あの指導は誰が行ったものなのでしょう?死人が出なくて本当によかった。というかどこかでは出ていたのでしょうね。お得意のもみ消し。あの「水飲むな」は日本のスポーツのレベルをかなり下げたと思います。責任者出てこいと言いたい。

それと、他に呼び方なかったの?とも思う。まあ、ピント外れでもないんだけれど、「◯◯に熱中する」という立派な(どちらかというといい意味の)熟語があるので、いまひとつ深刻な感じがしない。酷暑病とかちょっと深刻な響きの名前にすれば、もっとみんな予防的に動くのではないかしら。

それにしても、夏は始まったばかり。とにかくみなさま、暑さにはくれぐれもご注意下さい。

広告の不快指数。

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最近、ネット界隈で話題になった記事です。

こりゃ、ほたえな: 自分の娘に性欲のはけ口を求めるサントリーウエルネス広告がキモすぎる

元記事は元記事でちょっと考え過ぎだよなあ、という部分もありつつも、広告に対する「反感」についてどうマネージメントしていくのか、これから非常に大きな課題になるような気がします。

マス広告は、作り手側がネガティブな反応に対して一定の配慮をしますし、出稿についての考査も受けます。影響力が大きいので当然です。

一方WEBは、ターゲットを絞り込んで表現を変えて出稿することが可能なので、ターゲット以外の反応についてはあまり考慮されないことが多いように思います。

元記事にもあるように、A/Bテストの結果「刺さる」表現についてどんどん先鋭化していくバイアスがかかりやすいわけです。

短期的に考えれば当然そのほうが反応が多いわけですから誰だってそうするでしょう。しかし長期的なブランディングとしてどうなのか?という点についてはまだまだ未知数です。世の中には「いいね!」ボタンはありますが、「よくないね!」ボタンはありません。人々が抱いているネガティブなイメージを知る方法はあまりないのです。あるいは、「炎上マーケティング」のように、どっちにしろアクセスを集めたほうが勝ち、という開き直ったような考え方も多いです。

サントリーというまさに広告を知り尽くした企業でもこうしたネガ反応についてコントロールするのが難しいのですから、反応がいいからといって、機械的にキーワードやイメージ写真を切り貼りして広告を出稿することにおいて、その危険性はもっと意識されてもいいのではないかと思います。出る杭は撃たれる、目立つと攻撃される、というのはそもそも目立ちたい広告にとって永遠の課題ではありますが、悪い反応がこうして可視化されやすいネットにおいては、新しい判断基準が必要なのではないかと思います。タイトルに書いたような不快指数を測るとか。まあ、誰も得しないからやる人はいないんだけど(笑)

昭和生まれの僕としては、自分の年齢を知っているかの如く原稿が掲出されること自体、あるいはちょっと調べ物をすると関連するバナーでブラウザが埋め尽くされてしまうグーグル的世界に、一抹の気持ち悪さも感じてしまうわけで。インターネットの世界は、利便性とプライバシー、好感と反感など、いろいろな線引が本当に難しいです。

大人の言い替え10選。

ずいぶん久々の更新になってしまいましたが、何事もなかったように進めたいと思います。

今日はモノは言いよう、という話。大人たるもの、空気を読みながら言いたいことを言う技も必要です。手短に10例ほどご紹介しますね。

「太っている」・・・男性に対しては大柄、貫禄、恰幅、という言葉がありますね。女性に対してはそもそも触れてはいけません(笑)
「鈍感」・・・マイペースだねという言い方も最近ではちょっとネガティブイメージかな?自然体とか、おっとりしている、ぐらいか。
「地味」・・・ナチュラル、とかシンプルとか横文字にしちゃいましょう。
「狭い」・・・ムダがないとか、コンパクトとか、これも横文字に。
「臆病」・・・慎重派とか謙虚とかですね。
「老けている」・・・男女とも落ち着きがある、という言い方で。
「無愛想」・・・クール、無口、なんていうと、ちょっとカッコよくなりますね。
「飽きっぽい」・・・多趣味、好奇心旺盛、ということにしてしまいましょう。
「しつこい」・・・粘り強いとか、根気がある、ということなのでしょう(笑)
「普通」・・・定番、なんていう便利な言葉があります。

こうしたいい意味での言い換えは、コピーライティングの初歩テクニックでもあります。小手先といえばそうなのですが、まあ、日常生活でも役立つので覚えておいて損はないです。お試しを。

おさるのジョージは見事なソリューション。

一部の間で、『おさるのジョージ』のおじさんの心の広さが話題になっています。

『おさるのジョージ』の黄色い帽子のおじさんの心の広さは異常: やまもといちろうBLOG(ブログ)

僕は、あれは子供の読者(視聴者)と大人の両方を満足させる見事なソリューションなのだと思います。

やったことといえば、主人公を「おさる」にすることだけ。

あとはおさるが自由自在にいたずらを繰り広げて子供の「一度あれやってみたかった」という欲求に答え、それを黄色い帽子のおじさんが暖かく見守り親の「ああいう保護者でいたい」という欲求にダブルで答える、という仕組み。

もしジョージが普通の子供だったら、と考えれば、どれだけ洒落にならない事件の繰り返しなのか分かると思います。

すべては、さるだから許される。

さるソリューション(笑)

2013芥川賞は『abさんご』。文体がスゴイ。

ずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。
今年もぼちぼちよろしくお願いいたします。

というわけで第148回芥川賞。
最高齢で受賞というのが話題の黒田夏子さんですが、作品の文体がすごいですね。

『abさんご』(冒頭)

a というがっこうとb というがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,a にもb にもついにむえんだった.その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.
 またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.そこで片親とひとり子とが静かに並んでいた.いなくなるはずの者がいなくなって,親と子は当然もどるはずのじょうたいにもどり,さてそれぞれの机でそれぞれの読み書きをつづけるまえのつかのま,だまって充ちたりて夕ばえに染みいられていた.そういう二十ねん三十ねんがあってふしぎはなかったのだが,いなくなるはずの者がいなくなることのとうとうないまま,親は死に,子はさらにかなりの日月をへだててようやく,らせん状の紅い果皮が匂いさざめくおだやかな目ざめへとまさぐりとどくようになれた.ぎゃくにいえば,そうなれたからたちあらわれたゆめだ.
 ひきかえせないといういみでなら,もっと早いいつのまくらにただよいからんでもおなじだったろうが,どんな変形をへてでも親と子ふたりでくらす可能性ののこっていたあいだはもちろん,それが死によってかんぜんにうしなわれてもなお,帰着点がにがすぎればたちあらわれてはならないたぐいのゆめがあった.
 ゆめの受像者の,三十八ねんもをへだてて死んだふたりの親たちのうち,さきに死んだほうの親のゆめも,ふたりともが死んでしばらくたつまではほとんどたちあらわれなかった.受像者が,あとから死んだほうの親とふたりだけというじょうきょうでつくられたじぶんに淫しきっていて,それいじょうさかのぼった未定などじぶんがじぶんでないからはかかわりもないとかんじていたからか,かかわりがないというよりはむしろ,親ふたりそろっていてのじぶん,きょうだいがあったりするじぶんなど敵でしかないとかんじていたからか.
 親がふたりとも死んで,さらに年をへて,朝の帰着点がさざめきでかざられるようになった者が,ゆめの小べやの戸をあけると,さきに死んだほうの親がふとんに寝ていた.寝てはいたがいのちのあやういほど病んでいるというふうではなく,そうだったのか,あけさえすればずっとここにいたのだったかとなっとくした者は,じぶんの長いうかつな思いこみをやすらかにあきれていた.またべつのゆめで,親ふたりと子とがつれだって歩いていた.歩いてはいたが,さきに死んだほうの親がすでに病んでいるともわかっていた.なおるともなおらないともきまっていないところまではひきかえしたということ

リンク先www.bungaku.net/wasebun/pdf/WB25WEB.pdf#page=5

数字、帰着点、受像者など最低限漢字でないと分からない単語を除きすべてひらがな。カタカナも使われていません。面白いのは「親」は漢字で「ゆめ」はひらがななところ。確かにゆめはひらがなでもゆめだし、おやはひらがなにすると「おや?」とかと区別がつきにくいかも。あと「しぬ」も漢字で「死ぬ」という文字でないと伝わらないかもしれない。

思い出したのはケンブリッジ大学の研究と称しためちゃくちゃなひらがな文。こちらです。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく

ひらがなはゆっくり読まないと意味が分かりにくい。あわてて読むと上記のようなことが起きる。文学が、なんでも加速する現代にスローなリズムを思い出ささせる挑戦をしている、なんて勝手な解釈(笑)手に入れたいですが、書店で買えるかな?