大人の言い替え10選。

ずいぶん久々の更新になってしまいましたが、何事もなかったように進めたいと思います。

今日はモノは言いよう、という話。大人たるもの、空気を読みながら言いたいことを言う技も必要です。手短に10例ほどご紹介しますね。

「太っている」・・・男性に対しては大柄、貫禄、恰幅、という言葉がありますね。女性に対してはそもそも触れてはいけません(笑)
「鈍感」・・・マイペースだねという言い方も最近ではちょっとネガティブイメージかな?自然体とか、おっとりしている、ぐらいか。
「地味」・・・ナチュラル、とかシンプルとか横文字にしちゃいましょう。
「狭い」・・・ムダがないとか、コンパクトとか、これも横文字に。
「臆病」・・・慎重派とか謙虚とかですね。
「老けている」・・・男女とも落ち着きがある、という言い方で。
「無愛想」・・・クール、無口、なんていうと、ちょっとカッコよくなりますね。
「飽きっぽい」・・・多趣味、好奇心旺盛、ということにしてしまいましょう。
「しつこい」・・・粘り強いとか、根気がある、ということなのでしょう(笑)
「普通」・・・定番、なんていう便利な言葉があります。

こうしたいい意味での言い換えは、コピーライティングの初歩テクニックでもあります。小手先といえばそうなのですが、まあ、日常生活でも役立つので覚えておいて損はないです。お試しを。

2013芥川賞は『abさんご』。文体がスゴイ。

ずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。
今年もぼちぼちよろしくお願いいたします。

というわけで第148回芥川賞。
最高齢で受賞というのが話題の黒田夏子さんですが、作品の文体がすごいですね。

『abさんご』(冒頭)

a というがっこうとb というがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,a にもb にもついにむえんだった.その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.
 またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.そこで片親とひとり子とが静かに並んでいた.いなくなるはずの者がいなくなって,親と子は当然もどるはずのじょうたいにもどり,さてそれぞれの机でそれぞれの読み書きをつづけるまえのつかのま,だまって充ちたりて夕ばえに染みいられていた.そういう二十ねん三十ねんがあってふしぎはなかったのだが,いなくなるはずの者がいなくなることのとうとうないまま,親は死に,子はさらにかなりの日月をへだててようやく,らせん状の紅い果皮が匂いさざめくおだやかな目ざめへとまさぐりとどくようになれた.ぎゃくにいえば,そうなれたからたちあらわれたゆめだ.
 ひきかえせないといういみでなら,もっと早いいつのまくらにただよいからんでもおなじだったろうが,どんな変形をへてでも親と子ふたりでくらす可能性ののこっていたあいだはもちろん,それが死によってかんぜんにうしなわれてもなお,帰着点がにがすぎればたちあらわれてはならないたぐいのゆめがあった.
 ゆめの受像者の,三十八ねんもをへだてて死んだふたりの親たちのうち,さきに死んだほうの親のゆめも,ふたりともが死んでしばらくたつまではほとんどたちあらわれなかった.受像者が,あとから死んだほうの親とふたりだけというじょうきょうでつくられたじぶんに淫しきっていて,それいじょうさかのぼった未定などじぶんがじぶんでないからはかかわりもないとかんじていたからか,かかわりがないというよりはむしろ,親ふたりそろっていてのじぶん,きょうだいがあったりするじぶんなど敵でしかないとかんじていたからか.
 親がふたりとも死んで,さらに年をへて,朝の帰着点がさざめきでかざられるようになった者が,ゆめの小べやの戸をあけると,さきに死んだほうの親がふとんに寝ていた.寝てはいたがいのちのあやういほど病んでいるというふうではなく,そうだったのか,あけさえすればずっとここにいたのだったかとなっとくした者は,じぶんの長いうかつな思いこみをやすらかにあきれていた.またべつのゆめで,親ふたりと子とがつれだって歩いていた.歩いてはいたが,さきに死んだほうの親がすでに病んでいるともわかっていた.なおるともなおらないともきまっていないところまではひきかえしたということ

リンク先www.bungaku.net/wasebun/pdf/WB25WEB.pdf#page=5

数字、帰着点、受像者など最低限漢字でないと分からない単語を除きすべてひらがな。カタカナも使われていません。面白いのは「親」は漢字で「ゆめ」はひらがななところ。確かにゆめはひらがなでもゆめだし、おやはひらがなにすると「おや?」とかと区別がつきにくいかも。あと「しぬ」も漢字で「死ぬ」という文字でないと伝わらないかもしれない。

思い出したのはケンブリッジ大学の研究と称しためちゃくちゃなひらがな文。こちらです。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく

ひらがなはゆっくり読まないと意味が分かりにくい。あわてて読むと上記のようなことが起きる。文学が、なんでも加速する現代にスローなリズムを思い出ささせる挑戦をしている、なんて勝手な解釈(笑)手に入れたいですが、書店で買えるかな?

平成24年、今年の漢字。

「金」だそうです。

「金」の字を選んだ人たちは、ことしのノーベル賞で京都大学教授の山中伸弥さんが医学・生理学賞に選ばれたことや、ロンドンオリンピックで日本選手団が金メダルをはじめ、史上最多の38個のメダルを獲得したこと、それに世界一高いタワー「東京スカイツリー」の開業など数多くの金字塔が打ち立てられたことを理由に挙げているということです。このほか、932年ぶりに日本の広い範囲で金環日食が観測されたことや、消費税の増税など「金」を巡る問題が表面化したことなども理由に挙げられています。

“今年の漢字”は「金」 NHKニュース

僕なんかは心が汚れているからか、「金」という字はカネと読んでしまいがち(笑)。それに飛翔体発射の記憶も新しく、キムにも読める。そういえば、今年オリンピックあったんですよね~(遠い視線)。

漢字検定はいろいろドロドロした一件があったにも関わらず、こうしてキャッチーな年中行事に組み込まれて、なおかつ学校教育の一環的なポジションにも収まって安泰ですね。

日本の伝統文化と勘違いしている人も多いわけですが、漢字は立派な外来文字。日本人は骨の髄まで舶来モノが好きなのだなあ、と年末になるとしみじみ思います。

ワイルドだろぉ?年齢が。

2012新語・流行語大賞に、『ワイルドだろぉ』が選ばれました。

草食な時代にワイルドをいきがるKYな感じが受けた?なんて上っ面な分析はさておき、僕が気になるのは芸人さんがブレイクする年齢の高さ。スギちゃんが確か今年で39歳。その他若手芸人といっても30過ぎてる人がほとんど。

昔はよく30までに売れなかったら田舎に帰る約束、、、とかありましたね。まあ30までならよく待ってくれるほうです。それがいまでは40歳まで待たないと、という時代。もちろん、諦めなかったからブレイクした、ということも言えるのですが、いまに50歳でブレイクする芸人さんとか出てきそう。

僕もどっぷり中年、老年手前ですから励みになるような気がする一方、いろんなことが固定化しているだけなのでは?という気もする。

ユーミンが40周年記念ベストを出しましたしね。年取ったなあ、としみじみ思います。

天使のラッパ。

ドラえもんはじつは名言の宝庫で、ときどき出てくる人生の教訓や名セリフに心を打たれます。

僕がいちばん好きなのは、しずかちゃんが大人になってお嫁さんになる前夜の、お父さんとの会話です。世のお父さん方の多くを号泣させた名セリフ中の名セリフ。

引用します。

しずか 「パパ、あたし、およめにいくのやめる! あたしが行っちゃたら、パパさびしくなるでしょ」

父親 「そりゃもちろんだ」

しずか 「これまで、ずぅっと甘えたりわがまま言ったり・・・、それなのに、あたしのほうは、パパやママになんにもしてあげられなかったわ」

父親 「とんでもない。君はぼくらにすばらしい贈り物を残していってくれるんだよ」

しずか 「贈り物? あたしが?」

父親 「そう。数え切れないほどのね。最初の贈り物は、君が生まれてきてくれたことだ。午前3時ごろだったよ。君の産声が天使のラッパみたいに聞こえた。あんなに楽しい音楽は聴いたことがない。
 病院を出たとき、かすかに東の空が白んではいたが、頭の上はまだ一面の星空だった。この広い宇宙の片すみに、ぼくの血を受け継いだ生命がいま、生まれたんだ。そう思うと、むやみに感動しちゃって、涙が止まらなかったよ。
 それからの毎日、楽しかった日、満ち足りた日々の思い出こそ、君からの最高の贈り物だったんだよ。少しぐらいさびしくても、想い出があたためてくれるさ。そんなこと気にかけなくていいんだよ」

本編ではこれにあの丸っこいお父さんの絵(回想シーン)が重なるわけです。僕も父親の端くれ。何度読んでも、涙なしには読めません。。。

時間銀行。

有名なコピペです。まさに時は金なり。

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次のような銀行があると、考えてみましょう。
その銀行は、 毎朝あなたの口座へ86,400ドルを振り込んでくれます。
同時に、その口座の残高は毎日ゼロになります。
つまり、86,400ドルの中であなたがその日に使い切らなかった金額はすべて消されてしまいます。
あなただったらどうしますか。もちろん、毎日86,400ドル全額を引き出しますよね。

僕たちは一人一人が同じような銀行を持っています。
それは時間です。

毎朝、あなたに86,400秒が与えられます。
毎晩、あなたが上手く使い切らなかった時間は消されてしまいます。
それは、翌日に繰り越されません。
それは貸し越しできません。

毎日、あなたの為に新しい口座が開かれます。
そして、毎晩、その日の残りは燃やされてしまいます。
もし、あなたがその日の預金を全て使い切らなければ、あなたはそれを失ったことになります。
過去にさかのぼることはできません。

あなたは今日与えられた預金のなかから今を生きないといけません。
だから、与えられた時間に最大限の投資をしましょう。
そして、そこから健康、幸せ、成功のために最大の物を引き出しましょう。
時計の針は走り続けてます。今日という日に最大限の物を作り出しましょう。

1年の価値を理解するには、落第した学生に聞いてみるといいでしょう。
1ヶ月の価値を理解するには、未熟児を産んだ母親に聞いてみるといいでしょう。
1週間の価値を理解するには、週間新聞の編集者に聞いてみるといいでしょう。
1時間の価値を理解するには、待ち合わせをしている恋人たちに聞いてみるといいでしょう。
1分の価値を理解するには、電車をちょうど乗り過ごした人に聞いてみるといいでしょう。
1秒の価値を理解するには、たった今、事故を避けることができた人に聞いてみるといいでしょう。
10分の1秒の価値を理解するためには、オリンピックで銀メダルに終わってしまった人に聞いてみるといいでしょう。

だから、あなたの持っている一瞬一瞬を大切にしましょう。
そして、あなたはその時を誰か特別な人と過ごしているのだから、
十分に大切にしましょう。

その人は、あなたの時間を使うのに十分ふさわしい人でしょうから。
そして、時は誰も待ってくれないことを覚えましょう。
昨日は、もう過ぎ去ってしまいました。
明日は、まだわからないのです。
今日は与えられるものです。

だから、英語では今をプレゼント(=present)と言います。

友だちはとても貴重な宝石です。
それは、あなたに笑顔と、成功するための勇気を与えてくれます。
それは、あなたのことを聞いて、あなたを誉めて、あなたへ心を開いてくれます。
だから、あなたの友達に、どれほど心に留めているかを示しましょう。

日本語には、自分がたくさんある。

Assimilated
Rantes) / Foter / CC BY-NC-SA

名前シリーズ、続いてます。

よく、英語では一人称は「I」だけ、という話を聞きます。日本語は、「私」「僕」「俺」なんて、日常的に使い分けてますよね。

では自分の呼び方がどれだけあるのか、軽く調べてみました。

私(わたくし)
私(わたし)
私め(わたしめ)(わたくしめ)
僕(ぼく)
俺(おれ)
自分(じぶん)

・「私」は「わたくし」なのか「わたし」なのかでもニュアンスが違いますね。

うち
あたい
あちき
妾(わらわ)

・もうすでに女子小学生の間では「ウチ」がデフォルトですよ。

儂(もしくは「私」、わし)
我輩、吾輩、我が輩、吾が輩
某(それがし)
拙者(せっしゃ)
身ども(みども)
愚生(ぐせい)
吾人(ごじん)
小生(しょうせい)
手前

・男性が自分を呼ぶ呼び方もバリエーション多いです。武士の流儀?

おい、おいどん
おら
己等(おいら)
わい、わて、あて

・方言も含めて、こうした自分の呼び方もよく耳にします。

余・予(よ)
我・吾(われ・わ)
麻呂・麿(まろ)
朕(ちん

・これは高貴な人々の使う一人称。まろなんてちょっとギャグっぽく使われますね。

こうしてみると日本語の一人称は自分のクラスを表している場合が多いです。やはり目上目下を気にする文化独特のものなのでしょうか。日本語は特に一人称の種類が多いようです。