たった独りの引き揚げ隊

『たった独りの引き揚げ隊』

夏休みの読書感想文です(笑)
石村博子著 『たった独りの引き揚げ隊』10歳の少年、満州1000キロを征く(角川文庫)

満州引き揚げエピソードというのは数多くありますが、10歳の少年が、それも徒歩で1000キロ歩いて日本に帰って来たというのはたぶん、この本の主人公であるビクトル古賀さんただ一人ではないでしょうか。もちろん実話です。

ネットの書評記事を見て面白そうだと思い、さっそくアマゾンで購入しました。

ビクトル古賀さんというのは知る人ぞ知る生きる伝説。41戦すべて一本勝ちの記録を持ち、「ソ連邦スポーツ英雄功労賞」受賞のサンボマスターです。日本とロシアの混血で日本の柔道界にも大きな影響を与えました。旧ソ連では日本人の弟子がビクトル古賀の名前を出すだけでVIP待遇になるほどの存在。80歳近い高齢ですが現在もご健在のようです。

当然、サンボ(ロシアの格闘技)で連勝した格闘家時代をインタビューしたい人はたくさんいたのですが、それは全部断り、「人生でいちばん輝いていた」この引き揚げ体験を含む10歳前後の話を著者である石村さんに話した、とのこと。

引き揚げる日本人の裏切りによって彼は単独徒歩行を強いられた訳ですし、途中行き倒れの遺体に何百人と出会い、埋葬し、使えるものは拝借しています。戦争がいかに悲惨か、書きようによっては壮絶に描くことも可能だったと思いますが、少年の視線でどちらかといえばユーモラスに当時を振り返っています。

ロシアとの混血と書きましたが、正確にはコサックとの混血です。そしてコサックの伝統と生活の知恵を受け継いだからこそ彼は生き延びることができました。やはりこうした自然と一体化して生きる知恵、というのは心を動かされますね。

・川を音や匂いで感じる。
サバイバルのためには水の確保がいちばん大切。しかし、渇きで苦労したことはないそうです。騎馬民族であるコサックは馬に水を与えるのも重要な仕事で、草原のそこかしこにある水源を見つけるノウハウが発達しています。太い川なら10キロ以上先からも音がするので分かるというのですから、感覚が違います。そして周りに危険な動物がいないか、安心して飲める水か、慎重に慎重を重ねて川を利用します。

・家の煙の違いでロシア人と中国人を見分ける。
食糧確保のために物乞いをするのもサバイバル術のうち。流浪の民をあたたかくもてなす習慣のあるロシア人の家を訪ねたい。で、煙突から上る煙を見ればそれが見分けられるというのです。

・目にはいる物はなんでもよく見る。
「太陽も、鳥も、花も、みんないろんなことを教えてくれるよ」と古賀さんは話します。花の向いている方向、草の葉先の向き、樹皮の色、枝ぶり、すべてが太陽の方角と密接に関連している。道に迷わないためには、それらの情報に敏感にならなければいけません。そして、時折太陽に「ありがとう、ありがとう」草木にも「きれいだね」「暑くない?」と話しかけながら歩いて行きます。

他にも野宿の仕方、虫よけの方法など、ここには書ききれない様々なサバイバル術が満載です。自然と人間を深く深く観察した結果生まれたそのノウハウ一つ一つが、現代社会を生き抜くのにも応用できそうな気がします。

しかし何よりこの本が訴えたい最も需要なメッセージは、「日本人は逆境に弱い」。だからこそ、「前を向いて笑顔で歩け」ということだと思います。心理的に折れないことこそ、もっとも大切なサバイバル術なのです。

途中、何度も引き揚げ隊の日本人たちに出会いますが、どの人たちも引き揚げの境遇を嘆き、どうしていいか分からずただ呆然とするばかり。またリーダーシップの欠如によって、隊が全滅しそうになることもたびたび目撃しています。ビクトル少年は、下を向いて悲惨な面持ちで黙々と歩く人々と、ゆっくりでもいいから明るく笑顔でお互いを励ましながら歩く人々では、生き残る確率が違うことを知っていました。

たった一人でもそのことを実践し、実際生き延びた人がいるのですから、説得力が違います。ただ、著者の石村さんはそこをあえて強調はしていません。確かにそこをサラッと流しているからこそこの本は読後感が爽やかであるのですが。

そして、無事日本に渡り、苦学をしながら格闘技と出会い、後に伝説のヒーローになります。しかし、同時に混血ゆえの差別や、さまざまなしがらみによって、自由が失われていきます。41連勝しようが、本人にとってはどうでもいい事柄だったようなのです。

そう、「最も輝いていた」というのは、最も自由だった、という意味。古賀さんはふと草原単独行を振り返り、「楽しかったな」という感想を持ちます。生きるか死ぬか分からない状況だったのに、自分自身がすべてを決めるその毎日を楽しんでいたのです。

作者がサラッと流している部分をこうして一読者が勝手に結論付けるのはおこがましいですが、20年不況であえぐ日本に、「下を向くな。自由をめざせ」と教えてくれる本なのでした。